知らないことも幸せと感じた瞬間
すべてを知っていることが幸せか?
結論は「やっぱり、鈍感なところもあって知らないことがあるほうが幸せということ」
もう何歳のときか覚えてないくらい、昔のお話になります。
知っているのと、知らないとではおそらく、かなりの違いがあったであろうということが端的に表された場面に遭遇しました。
あれは渋谷の駅のホームで電車を待っていたときのことでした。
ホームはそれほど混雑しているわけでもなく、並んで待つ必要もなかったので壁の方にもたれて電車が到着するのを待っていたんですね。
まだスマホもない時代だったため(これでかなり昔と察しがつきますね)、することもなく、ぼ〜とホーム全体を眺めていまた。
そのうち、ある一点に自分の視点がロックオンされたのです。
何かといえば、たまに柱の根元に広げられた酔っ払いが作ったもんじゃ焼き(すみません、この表現でお察しいただければ幸いです。)
あ、まだ駅員さんが片付けてくれてないんだと。
そうこうしているうちに左のほうからスーツ姿のサラリーマンのかたがツカツカと歩いて来たのです。
その距離、およそ10メートル
「あれ!」
そのとき、僕の脳内である計算が始まりました。
このままの軌道を保てば、限りなくもんじゃの上を通過する確率が高い!
「どうしよう、気づいてる様子がない」
そうこうしているうちに残り5メートルまで接近
「あぶないですよ!と大声をあげるべきか。」
自分からもかなり距離があるため、大声を出さないと聞こえない
なぜか、葛藤する自分
その間も距離が迫ってくる
3,2,1メートル
「あーダメだ、たのむ気づいてくれ!」
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しかし
心の祈りもむなしく、サラリーマンのかたは見事、もんじゃの上をしかりと踏みしめ通過をしたのです。
「うーダメだったかー」
何とも言えない虚脱感
回避させてあげれなかった・・・・・
本当に申し訳ない
長いようで、一瞬のことだった
など、自分に言い訳をしながらその場面をスローモーションのように眺めていたそのとき
「あれ?」
当の本人は嫌な顔どころか、やった!とばかりに笑顔でその場を去ろうとしてしているではないですか。
そうなんです、よく見ると改札の場所を確認するべくずっと上の案内表示を探しながら歩いていたおかげで、全く踏んずけたことに気づいてないのです。
しかも探していた出口をようやく見つけ、良かったと安堵の表情だったのです。
そして、そのまま改札への階段を下りて行きました。
そのとき、
「あー、踏んずけたとわかれば、その日1日が最悪な気分になっていたところ、わからなかった為にそれを避けられたんだなー、しかも出口を見つけられた喜びに満ちていたし」
その差の大きさを感じさせられた瞬間でした。
知らないということもイイよなー
大きな気付きがあった日でした。
物事、あまり気にしすぎると知らなくてもいいことを知ることとなります。
ときには鈍感なくらいがちょうどいいこともありますよね。
すべてを知ることに執着せず、「あれ?」と思ってもスルーしてみることも必要かもですね。
今日から皆さんも
「ま、いっか!」でいきましょう!